以下に紹介するのは2025年4月現在の調査で判明している市区鎮郷の飛び地です。
村里以下はきりがないので割愛しています。
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台湾の飛び地は主に以下の理由で形成されることが多いようです。自然災害の激甚化が進む昨今、飛び地はさらに増えることが考えられます。
1954年、政府は原住民の生活を改善し管理を容易にするため、金峰郷の山中にあった介達村と比魯村の住民を太麻里郷の平地に移転させた。これらの村はのちに合併して介比村となり、1973年に正興村と改名された。
正興村と同様の政策により、金崙渓上流の壢坵村を1951年に新興村へ移住させた際、西パイワン族に属する少数の住民が太麻里郷内に移り、飛び地の賓茂村を形成した。
原住民の生活を改善し管理を容易にするため、鹽埔郷、長治郷、内埔郷に接する隘寮渓の河川敷約400haを埋め立て、霧台郷、三地門郷、瑪家郷の原住民がその周辺へ移転した。屏東県は1967年にこの地を三和村と制定した上、瑪家郷へ移管して飛び地となった。
由来不明。
1980年、政府は地形が居住に適さないという理由で、好茶村のルカイ族をトゥラレゲレ(Tulalegele)と呼ばれる場所へ移住させた。新好茶と呼ばれたその場所は古代ルカイ族とパイワン族の戦場だった上、非常に辺鄙で土砂災害の危険や若者の就職難などの問題があったため、八八水害ののち再び瑪家郷の禮納集落へ移転して飛び地を形成した。
屏東県最奥の山中にあった阿禮村は八八水害で甚大な被害を受けたため、住民全員が長治郷の百合集落へ移転した。阿禮村の西隣にあった吉露村も八八水害の土石流で集落の1/3が流失し、長治郷の百合部落へ移転して飛び地を形成した。
八八水害により壊滅的な被害を受け、原住民の伝統文化を存続させるため、瑪家郷の禮納集落へ移転して飛び地を形成した。
由来不明。
八八水害により壊滅的な被害を受け危険区域となったため、2011年8月、萬巒郷内の台湾糖業公司所有地へ移転し、飛び地を形成した。
八八水害により複数の原住民集落が破壊されたため、新埤郷内の南安農場へ移転して飛び地を形成した。
2004年、自然保護区域だった高雄県桃源郷建山村(当時)に観光用ロープウェイの建設が計画されたため、建山村は保護区域外の六龜郷に編入され飛び地となった。2010年12月に高雄県が高雄市に編入されたため、桃源郷と六龜郷はそれぞれ桃源区と六龜区となり、建山村は建山里となった。