線路を歩こう。

東武鉄道西大家構外側線
(日本セメント専用線)

 


 我が家の最寄り駅である拝島から八高線の下り電車に乗ると、約 25 分で高麗川に着きます。私は仕事 (前職) や私事で八高線を利用する機会が多いので、高麗川駅から太平洋セメントへ続く廃線のあることは、車窓から見て以前から知っていました。しかし、普段仕事で回っている場所に休日を使って行くのも嫌だったし、これといって特徴のない平凡な路線というイメージもあって、今まで探索の対象として考えたことはありませんでした。
 ところが今年 (2009 年) 3 月に、この廃線跡の一部が地元の日高市に寄贈されました。これを受けて市では、この秋にも遊歩道化工事を開始し、年内には完成させるとの報道が 6 月 4 日にありました。
 行政が絡むと、面白いものも、そうではなくなってしまいます。廃線跡といっても遊歩道になればただの道。そうなってからでは一生行く気が起きないかも知れません。事前調査や測量が始まる前に行かなくてはと思い立ち、早速 6 月 12 日 (金) に歩いてきました。今回はこの時の探訪レポートをお届けします。
 「線路を歩こう。」の第 4 弾は、東武鉄道西大家構外側線、通称「日本セメント専用線」です。

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 本文では、この路線を「日本セメント専用線」と表記していますが、廃止時の名称である「太平洋セメント専用線」とすべきだったかも知れません。しかし、この路線は 36 年の生涯の大部分を、日本セメント埼玉工場の一施設として務めました。日本セメントは 1998 年 10 月に社名が太平洋セメントになりましたが、専用線はそのわずか 1 年後に廃止されています。高麗川駅構内に立っている区界標の表記も「日本セメント専用線」のままです。また、この路線の北側 (西大家信号所~日本セメント) は 1984 年に廃止されていますが、これは言うまでもなく日本セメント時代の出来事です。
 これらのことから、本文ではこの路線を、敢えて「日本セメント専用線」と呼ぶことにします。地元でもその方が通りがいいようです。なお、現在操業中の会社自体を指す場合は太平洋セメントとします。


日本セメント専用線路線図
↑日本セメント専用線。画像をクリックすると拡大表示します (834KB)。
赤い線は立ち入りできない区域を示しています。


 この専用線の正式名称は西大家構外側線といい、東武鉄道の路線だったそうです。セメント工場の構内以外は全線単線で、全線の延長は 5.0km です。
 上の地図で分かるように、この路線はセメント工場を中心にして、北側と南側の 2 つに分けられます。
 北側の区間は、東武越生 (おごせ) 線の西大家駅近くにあった西大家信号所から分岐して、セメント工場に至ります。セメント製品や粘土を運搬するため 1963 (昭和 38) 年 5 月に開業しました。東武鉄道から電気機関車が乗り入れるため全線電化 (直流 1,500V) されていました。廃止されたのは 1984 (昭和 59) 年 8 月です。
 南側は、八高線の高麗川駅から分岐して、同じくセメント工場に至る区間です。こちらは全線非電化の単線で、牽引には国鉄 (JR) のディーゼル機関車が使われていたそうです。開業は北側と同じ 1963 (昭和 38) 年ですが、廃止されたのは 1999 (平成 11) 年 9 月です (当初は休止だったようです)。
 この路線は、列車の運転こそ東武鉄道や国鉄 (JR) が行っていましたが、土地や施設の所有者は日本セメントだったようです。というのは、現地を歩いている時に、扇マークの境界標はたくさん見つかったのですが、「工」マークのものは一つも見あたらなかったからです。

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 北側の廃線跡は日高市と鶴ヶ島市に跨っていますが、鶴ヶ島市部分の施設はほぼすべて撤去されていて、線路も枕木も残っていません。跡地の譲渡や転用が進んでいる日高市と異なり、未だに路線跡の大部分を太平洋セメントが所有しているようで、目的のはっきりしない空き地になっています。恐らく地目も鉄道用地のままだと思います。日高市については、築堤部分や鶴ヶ島市との市境近くが太平洋セメントの所有地ですが、それ以外は道路に転用されたり、民間に払い下げられて住宅になっている部分があります。
 一方、南側は全区間が日高市を通ります。今年 (2009 年) 3 月には大部分の区間が太平洋セメントから市に寄贈されました。会社としては、使い道のない土地を塩漬けにして税金を払い続けるより、タダでも譲り渡した方がいいと判断したのかも知れません。前述したように今秋から遊歩道化工事が始まるそうですが、探訪日時点では、線路や踏切などの多くの施設が残されていました。しかしこれらを観察できるのはあとわずかです。


 今回の探訪では、西大家信号所跡から出発して、高麗川までの全区間を歩いてみました。ただ、太平洋セメントの工場内には立ち入ることができないので、その部分は迂回しました。
 また、今回からカメラが変わり、画像サイズの縦横比が 3:2 になりました。本文のサムネイル写真 (330 × 220 ピクセル) をクリックすると、Lightbox で大きな画像 (最大 960 × 640 ピクセル) を表示します。コメントの最後にある [MAP] をクリックすると、撮影地点の地図を表示します (地図データは更新されるため、探索時とは異なる場合があります)。動画もありますので、最新のブラウザでご覧ください。動画のサイズは 768 × 432 ピクセルで、再生には約 2Mbps 以上の転送速度が必要です。迂回等により撮影時刻が前後している場合があります。

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取材先

日高市役所都市整備部都市計画課
鶴ヶ島市都市整備部道路建設課


その 1 「西大家駅→石井ウッド先」

西大家駅→石井ウッド先地図
画像をクリックすると原寸表示します。


 拝島~高麗川~川越を経由して、約 1 時間半かけて西大家駅に着きました。こんなに時間がかかるなら、高麗川で降りて歩いた方がいいわけで、実際この 2 日前の 6 月 10 日にはそうしたのです。その結果、この路線は西大家から高麗川に向かって歩く方が色々と都合がいいと思ったので、天気の良い日を選んで再訪しました。2 日前は天気が悪くて、写真がみんな暗くなってしまったのも、再訪の理由の一つです。 001
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002  西大家信号所跡に向けて歩いています。このあたりは鎌倉街道上道 (かみつみち) に近く、古くからの集落がいい雰囲気を醸し出しています。道行く人に挨拶すれば、世間話が始まります。木陰にベンチが置かれていたりして、普通に散策するにも良い場所だと思います。この道路は市道 59 号線 (鶴ヶ島市) といい、左側が坂戸市、右側が鶴ヶ島市です。
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 西大家駅から 500m あまり歩いて、西大家信号所跡に着きました。線路は東武越生線で、写真奥に西大家駅があります。日本セメント専用線はここが起点でした。 003
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004  上の写真と同じ場所でズームインして撮影しました。専用線が敷かれていた名残が、バラストの残る空き地や複線の架線柱に見て取れます。ここから専用線に入る列車は、東武鉄道の機関車がそのまま乗り入れて牽引していたそうです。4km のキロポストは坂戸起点です。
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 線路から離れて迂回中に撮影した写真。鉄道柵の向こう側に、越生線と専用線が並んでいます。左が高麗川 (越生線は越生) 方面です。左側の建物は西大家変電所です。 005
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006  畑の道を通って線路端に来ました。草が生えている部分が廃線跡です。専用線は、写真奥の木造家屋の左側を通って、高麗川に向かっていました。変電所は昔からありましたが、専用線が廃止されたあとに建て替えられて、場所も若干移動したようです。
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 坂戸方向に向かって変電所を撮影。フェンスが切り欠いている部分に線路が敷かれていたようです。左の民家は専用線の現役時代から建っていました。 007
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1974年航空写真
↑西大家変電所付近の 1974 (昭和 49) 年の航空写真。
家並みが現在とほとんど変わりません。

2003年航空写真
↑こちらは 2005 (平成 17) 年ごろ。矢印が現在地。
変電所の建物が移動しています。昔の建屋は基礎を残して撤去されています。



008  変電所を背にして撮影しました。草で緑になっている部分が廃線跡です。いよいよここから探訪が始まります。
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 少し進んだところで、越生線の電車が通過していきました。単線の割に本数は多いようです。西に向かう越生線と分かれて、廃線跡は左にカーブして南に向かいます。 009
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010  この辺は農地区分のようで、駅から近い割に住宅はまばらです。専用線の北側が廃止されてから 25 年が経過していますが、一応首都圏でありながら、このように廃線跡が完全に残されているのは珍しいと思います。この辺りは開発の手がほとんど入っていないようで、高度経済成長前の、古き良き日本の風景が残っています。
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 前方に砂利道らしきものが見えてきました。 011
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012  ここは鶴ヶ島市の市内循環バスの停留所兼転回所です (町屋転回所)。前職で外回りしていた時に、このバスに乗ったことがあって、ここでバスが転回したのも覚えています。仕事とはいえ、よくもまあこんなところまで工具鞄を担いで来たもんだと思いました。その時はここが廃線跡とは思いもしませんでした。
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 町屋転回所を過ぎると、廃線跡は原っぱのようになって続いています。棒杭の外側に踏み跡があって、地元の人はこちらを歩いているようです。 013
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014  少し進むと整地された場所がありました。ここはゲートボール場になっていて、2 日前 (6 月 10 日) に来た時はプレーしている人がいましたが、今日は誰もいません。廃線跡がゲートボール場になっているケースはたまに見かけます。
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 写真では少し見づらいですが、バラストが少しだけ残っていました。左が高麗川側です。 015
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016  上の写真と同じ地点で高麗川方向を向いて撮影しました。相変わらず草むらです。
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 少し荒れてきました。この辺りは廃線跡を歩くこともできますが、いちいち棒杭をよけるのが面倒なので、平行する道路を歩いています。 017
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018  踏切の遺構がありました。コンクリート製の土台が一つだけなので、警報機や遮断機のない第四種踏切か、警報機のみの第三種踏切だったのかも知れません。
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 踏切地点から高麗川方向を向いています。 019
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020  この写真も同じ地点です。これも踏切関連の施設だと思います。線路から少し離れているので、あとから自動車の左折巻き込み防止用に移設したのかも知れません。
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 踏切跡から少し進むと、再びコンクリート製の土台が並んでいました。この並び方だと信号機や地上用信号炎管が建っていた感じがしますが、定かではありません。 021
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022  日本セメント専用線のレポートに必ずといっていいほど登場するのが、この廃車体です。バスにはあまり興味がないので素通りしましたが、デザイン的には 1980 年代初めごろの匂いがします。1990 (平成 2) 年の航空写真には写っていませんが、2000 (平成 12) 年ごろのには写っているので、その間に倉庫代わりに置かれたのかもれません。ベンツの方は知りません。
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上空から見たバス
↑上空からもバスが見えます (矢印)。ベンツもあります。
2000 (平成 12) 年ごろ撮影された航空写真。



 さらに進むと橋台がありました。農業用の疎水を渡る橋が架かっていたのだと思います。橋台の形や長さからすると、恐らくI型鋼を並べた簡素なものだったと思います。 023
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024  角度を変えてもう一枚。左側の道路は鎌倉街道です。市道 59 号線という番号が与えられていますが、由緒正しい古道です。写真奥の方に進むと 500m ほどで西大家駅があり、その先には国謂地祗神社などの史跡もあります。鉄パイプで柵を設けてあるのは、疎水の転落防止のようです (実際に落ちた人がいるらしい)。
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 鎌倉街道に立って高麗川方面を撮影しました。このように道路になっている部分もありますが、鶴ヶ島市では先ほどの町屋転回所とここくらいで、あとは大部分が放置されているようです。 025
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026  放置とは言っても、住宅付近はこのように草が刈られています。本当に放っておいたら、雑草や雑木でとても踏み入ることはできないでしょう。鶴ヶ島市では、廃線跡の大部分が太平洋セメント所有地 (恐らく地目も鉄道用地) のままということもあり、現在のところ利用計画などは持っていないそうです。
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 民家の軒先をかすめて廃線跡が続きます。子供の格好の遊び場になっているようです。 027
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028  駐車している車の向こう側には、小さな土盛りがあって、そこだけ雑草が生えていました。写真は土盛り越しに高麗川方面を望んでいます。
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 土盛りを超えると左右に畑が広がっていました。ここからしばらく民家が途絶えます。 029
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030  廃線跡の脇に境界標が立っていました。扇のマークは浅野セメントで、創業者である浅野家の家紋が元になっているそうです。浅野セメント株式会社は 1912 (大正元) 年 10 月に設立され、いくつものセメント会社を吸収して、1947 (昭和 22) 年 5 月に日本セメント株式会社に商号を変更しました。その後 1998(平成 10) 年に秩父小野田株式会社と合併して、現在の太平洋セメント株式会社が発足しました。この境界標が立っているということは、廃線跡は未だに太平洋セメントの所有地なのでしょう。
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 道路と交差する部分には踏切の遺構が残っています。 031
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032  踏切跡の近くに資材置き場があって、枕木やレールが保管されていました。専用線を撤去した時の発生品かも知れません。
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 同じ踏切を角度を変えて撮影。左が高麗川方面です。土台が左右に 2 個あります。 033
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034  この踏切から高麗川方面に向けて、廃線跡には轍が延びています。下の [MAP] で表示される Yahoo! 地図も道路の表示になっていますが、これを道路と呼ぶのはちょっと疑問です。ただ、この先は行き止まりではないので、たまに通る車があるのでしょう。
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 写真が暗いので分かりにくいですが、この境界標も浅野セメントのマークが入っています。境界標は随所に多数残っています。この辺はとにかく送電線が多く、どう写真を撮っても鉄塔が写ります。 035
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036  この辺はちょっと分かりにくいのですが、線路は右側の雑木の中を通っていたようです。さすがにこの中に突入する気力はないので、轍のあるところを通りました。
[11:03] [MAP]

 轍は急に向きを西に変えて、廃線跡を渡ります。路盤だった部分が少し高くなっていました。この轍の部分が鶴ヶ島市と日高市の境です。ということは、これはやはり道路なのでしょう。 037
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038  市境から高麗川方面を見たところ。廃線跡は雑草に覆われています。私は蜘蛛と毛虫が苦手なので、ここもちょっと無理。というか、こんなに何もなくて鉄塔だらけだと、雷の時はさぞかし恐ろしいことになるでしょう (この世でいちばん嫌いなものが雷なんです・・・)。
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 ほんの 2 ~ 30m 迂回して進むと、このように踏切跡が現れます。右が高麗川方です。廃線跡はここから高麗川駅まで日高市内を通ります。 039
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040  廃線跡は轍のある方です。車は見ませんでしたが、6 月 10 日に歩いた時に犬を散歩させている人とすれ違いました。制服を着た女性だったので、会社で飼っている犬なのでしょう。のんびりしたものです。
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 歩いていると気づきにくいのですが、少し登り勾配のようです。 041
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042  道端には蝶がたくさん飛んでいました。
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 大きな建物や車が見えてきました。どうやら操業中のようです。 043
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044  ここは石井ウッドという材木販売を行っている会社です。工場からは製材機械の音が盛んに聞こえてきます。横に止まっているのは従業員の車だと思いますが、工場から出た切粉が積もってしまって、洗車するのが大変そうです。
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 廃線跡は工場の裏を通りますが、ご覧のように雑草が深いので、軒下を通らせてもらいました。このぐらいなら秋~春は余裕で通れると思いますが、梅雨時は廃線巡りには不向きです。にもかかわらずこの時期に探訪したのは、今年中に南側の廃線跡が遊歩道になってしまうからです。雑草が枯れる秋には着工していることでしょう。 045
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046  同じく工場の裏手です。この先にある築堤部分を除けば、北側の廃線跡の中で最も痕跡を残しているのはここだと思います。レールや枕木こそ撤去されていますが、高く盛られたバラストがそのままになっています。
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 石井ウッドの工場脇を抜けると、道路を挟んで駐車場になっていました。どうも日高市の場合は、太平洋セメントから廃線跡を買い取るなり譲り受けるなりして、積極的に転用しているように思えます。右には建設会社が、左にはガス会社がありますが、どちらの駐車場かは分かりません。 047
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─ その 1 「西大家駅→石井ウッド先」 ─
─ その 2 「石井ウッド先→太平洋セメント埼玉工場北側」 ─
─ その 3 「太平洋セメント埼玉工場北側→高麗川駅」 ─


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