線路を歩こう。

羽村山口軽便鉄道

─ 導入 ─

1号隧道1931 1号隧道2008

2008 年 11 月 30 日公開
2008 年 12 月 14 日訂補
2008 年 12 月 20 日第 1 回改訂
2009 年 3 月 23 日第 2 回改訂
2009 年 4 月 30 日第 3 回改訂

 去年 (2007 年) 9 月に東村山市から昭島市に引っ越してきて、職場のある所沢まで車で通勤することになった。通勤経路は色々試したが、最終的には五日市街道~伊奈平南を通り、新青梅街道や青梅街道を渡って、かたくりの湯~多摩湖畔~松が丘という風に落ち着いた。
 この経路で通うようになってからしばらくして、かたくりの湯の少し南に不審な隧道があることに気づいた。朝の出勤時は急いでいるので、見つけても止まって見物するような余裕がなく、会社帰りに立ち寄ってみようと思ったが、不思議なことに帰る時は何度通ってもスピードを落としても見つけられない。それでいて朝は難なく見つかるのだった。
 ある時、隧道の入口に大きく「横田トンネル」と名前が書かれているのが読めたので、帰宅してからネットで検索してみたところ、もともと軽便鉄道で使われていたもので、現在は遊歩道として通行可能になっていることが分かった。調べたところでは、車から見える横田トンネルだけでなく、そのほかにもいくつかの隧道が存在するらしかった。また、通行できる時間帯は日中に限られていて、夜はシャッターが閉められるそうだ。道理で日の暮れた会社帰りに見つけられなかったわけだ。
 今回は、この 1 年間ずっと気になっていた横田トンネルを含め、かつて東京都羽村市から埼玉県所沢市まで敷かれていた軽便鉄道の廃線跡の模様をレポートする。


羽村山口軽便鉄道の歴史

1. 敷設の経緯

 江戸時代の東京の水道は、多摩川を水源とする玉川上水や、井の頭池の湧き水を水源とする神田上水などが主に利用されていた。送水方法は水源からの高低差を利用した自然流下で、導水路は開渠方式、配水には木樋が使われ、浄水施設はなかった。明治以降になって急速に都市化が進むと、開渠の導水路には生活排水や糞尿、時には動物や人間の死体までもが流れ込み、水質が著しく悪化し、「希薄な尿液」とまで言われるようになった。このため 1911 (明治 44) 年に淀橋浄水場が建設され、玉川上水の水を沈殿・濾過・消毒して、鉄の水道管で高圧送水するようになった。その結果水質は劇的に改善したが、多摩川の水をそのまま取り入れるだけのこの方法では、渇水期には水不足となって、増え続ける人口に対応できなくなった。そこで水道拡張の調査が行われた結果、北多摩郡村山村付近 (現在の東村山市付近) の丘陵地帯に貯水池を設けた上で、新たに導水管を作り、多摩川から引いた水を溜めておくことになった。この貯水池が「村山貯水池」であり、その導水管工事のために敷設されたのが羽村山口軽便鉄道というわけだ。
 その後、淀橋浄水場はその機能を東村山浄水場に移して 1965 年 3 月に廃止され、跡地は新宿副都心になった。

2. 羽村村山導水管敷設工事

トンネル区間予想図 現在この鉄道は一般に「羽村山口軽便鉄道」と呼ばれていて、その歴史は大きく三つに分けることができる。最初に敷設されたのは 1921 (大正 10) 年に遡る。敷設の目的は、当時まだ建設中だった村山貯水池に多摩川の水を送る導水路工事のためで、その時の名称は「羽村村山導水管敷設工事軌道」というそうだ。この導水路の取水側は東京都羽村市の羽村堰近くにあって、そこから導水路をなぞるようにして、現在の福生市加美平団地あたりまではインクライン、その東側は鉄道が走っていた。今回参考文献にした「水瓶軽便物語」に掲載されている写真を見ると、鉄道は導水管に沿って地上に敷設されていたようだが、現在の 1 号隧道 (横田トンネル) 付近~村山貯水池までのルートは不明とされている。私が実際にこの区間を歩いたところでは、地上にほかのルートがあるようには思えなかったし、戦後すぐに撮影された航空写真にもそのような痕跡はない。恐らく 1 号隧道付近から東側は長いトンネル区間になっていて、用途廃止後はそのまま導水路に転用されたのではないかと考えている (右の地図の黄緑色の線で示す区間)。たかが数年使うだけのつもりで敷設した軽便鉄道に長大トンネルを掘るなら、そういう理由でもなければ不経済だ。なお、この導水路は現在の地図では「東京水道」と表記されている。

3. 山口貯水池建設工事

 羽村村山導水管敷設工事軌道は、導水路の建設が終わったあと廃止され線路も撤去されたが、急激に人口が増え続ける東京の水不足は深刻で、1928 (昭和 3) 年には村山貯水池の隣で山口貯水池の建設が始まった。これに伴って、軽便鉄道も砂利運搬用として復活することになった。復活後の名称は文献によって異なるようだが、ここでは水瓶軽便物語に倣って「羽村山口軽便鉄道」とする。路線の多くは羽村村山導水管敷設工事軌道のままだったが、砂利は多摩川から運ぶので、羽村堰付近から多摩川の対岸まで北西へ延長したようだ。下に掲げた地図の探訪区間 (1) にあたる部分がそれだが、河川敷は時間とともに変化するものなので、確かめることは難しい。また、1 号隧道 (横田トンネル) 付近から東側も別ルートとして敷設され、1 号~ 6 号の隧道もこの時に作られたようだ (水瓶軽便物語にはなぜか 6 号隧道の記載がない)。廃止年は不明だが、山口貯水池に湛水が始まったのが 1932 (昭和 7) 年 10 月であり、湛水後は周辺の地盤が変化する可能性があるので、それより前には廃止されていたのではないかと想像している。水瓶軽便物語にも、1931 (昭和 6) 年 12 月末日に多摩川の砂利採取事業が終わり、軽便鉄道も用途廃止になったと書かれているので、たぶん間違いないだろう。なお、村山・山口の両貯水池にかかわる水道事業を「東京市第一水道拡張事業」と呼び、その水は武蔵野市の境浄水場に送られている。

4. 村山・山口貯水池防衛工事

 二度廃止されたこの鉄道は、しばらくそのまま放置されていたようだが、その後第二次世界大戦中に三たびの復活を遂げている。米軍の本土攻撃に備えて、山口貯水池と村山下貯水池の堤体補強工事 (村山・山口貯水池防衛工事) を行うことになり、玉石混じりのコンクリートを作るため、砂利運搬に使用されることになったのである。なお、この工事にあたって村山下貯水池堤体まで路線を延ばす必要があったので、現在玉湖神社のあるあたりから線路を分岐し、村山下貯水池堤体上まで延長された。下の地図の探訪区間 (4) がこれにあたる。工事は 1943 (昭和 18) 年 4 月から始まったので、鉄道の三度めの復活もこの時からと考えられる。工事終了は 1944 (昭和 19) 年 12 月で、その後羽村山口軽便鉄道は本当に廃止され、蘇ることはなかった。時代が時代だから、線路は直ちに剥がされて、他の鉄鋼製品に転用されたのではないかと想像している。
 現在、廃線跡の大部分は遊歩道として整備されている。武蔵村山市には鉄道がないので、廃線跡を利用して敷設すればよさそうなものだが、導水路の真上であり、古い工事で土被りも少ない (浅い) だろうから、複線・長大編成が必要な現代の旅客輸送では重量に耐えられないのかも知れない。


 探訪にあたっては、廃線跡を西から順に 5 つに分けて考えることにする。

■多摩川河川敷~横田基地東側 (探訪区間 1)
■横田基地内~石川島播磨敷地内 (探訪不能区間)
■石川島播磨東側~ 6 号隧道北口先 (探訪区間 2)
■ 6 号隧道北口先~山口貯水池堤体北端・上山口駅跡 (探訪区間 3)
■玉湖神社付近~村山下貯水池堤体 (探訪区間 4)

路線図
↑画像をクリックすると別ウインドウで大きな地図を表示する (ファイルサイズ 1.3MB)。
四角い枠内は隧道が連なる区間で、その拡大図はに掲げた。


 上の地図は羽村山口軽便鉄道の路線を示したものだ。西から順に説明する。
 探訪区間 (1) は、多摩川右岸の河川敷から横田基地に至る区間で、2009 年 3 月 17 日 (一部 21 日) に踏破した。この区間のうち、羽村取水口から西側の河川敷区間は、羽村山口軽便鉄道が二度めの復活をした時に、多摩川の砂利を採取するために延長されたものと思われる。河川敷区間についての資料は非常に乏しく、今のところ路線を忠実に追うことは困難だ。羽村取水口の東側については、ほぼ全区間に渡って道路や遊歩道になっているので、歩くことに支障はない。加美平住宅から東は一部私有地になっている部分もあるが、建物が廃線跡に沿って切り欠いた形になっていたりするので、痕跡を探るのは容易だ。新しい建物でも廃線跡にかからないように建っているものが多いが、これは地下に導水路があるため、基礎を打てないからではないかと思う。なお、羽村取水口~加美平住宅付近はインクライン区間で、青梅線とはオーバーパスして交差していたようだ。

 探訪不能区間 というのは横田基地と石川島播磨の敷地を指している。横田基地内は米国領であり当然入れないし、航空写真を見た限りでは、導水路に関係なく施設が建てられているようなので、入れたとしても痕跡はなさそうだ (横田基地日米友好祭の日に探訪できるかも知れない)。石川島播磨の敷地内は、廃線跡に構内通路があったり、それを避けて切り欠いた建物もあるが、仕事で偶然行くことでもない限り入れないだろうから、どちらも探訪不能として端から諦めている。ただ、横田基地でも国道 16 号線と八高線の部分だけは我が国の領土だと思うので、その部分だけは探訪可能だろうし、わずかな痕跡が残っている可能性もなくはない。なお水瓶軽便物語を見ると、八高線を隧道でくぐっていることになっている。

 探訪区間 (2) は石川島播磨東側から 6 号隧道北口先までで、2008 年 11 月 23 日に踏破した。この区間は廃線跡の多くが遊歩道 (自転車道) になっているので、普段からサイクリングやジョギングなどで賑わっているようだ。ただし 5 号隧道西口から 6 号隧道北口先までは、東京都水道局によって立ち入り禁止とされている。理由は不明だが、恐らく 5 号隧道の東側の坑門に大きなクラックが入っていて崩壊の可能性があるからだと思う。隧道名が「○○トンネル」となっているのは、恐らく遊歩道化してからつけられた愛称だろう。そもそもは工事用の軽便鉄道であり、単に 1 号~ 6 号と呼んでいたと考える方が自然だ。なお、上の地図の四角い枠内を拡大したのが下の地図だ。隧道区間の様子がより詳しく分かると思う。

 探訪区間 (3) は 6 号隧道北口先~山口貯水池堤体北端・上山口駅跡までで (途中で分岐)、2008 年 12 月 16 日に踏破した。羽村から山口貯水池堤体北端までがいわば本線で、分岐点~上山口駅跡については仮に上山口支線と呼ぶことにする。この支線は途中に急勾配があるのでインクラインになっていた。終点ではかつて西武狭山線にあった上山口駅 (駅名変更前は山口貯水池駅) と連絡していた。

 探訪区間 (4) としているのは、玉湖神社付近~村山下貯水池堤体だ (仮に村山支線と呼ぶ)。前述のように、この区間は第二次世界大戦中に、米軍の空襲に備えた貯水池堰堤の補強工事のために敷設された。現在は廃線跡の多くが車道や遊歩道になっているが、線路を剥がしたまま作業道路に転用されている部分も多少残っている。資料が乏しいため、すべての区間を正確にたどることは難しいが、古い航空写真である程度は特定できる。村山支線は 2009 年 4 月 29 日に踏破した。

路線図2
↑隧道が連なる区間の拡大図。赤い線が隧道。


 それでは次ページからレポートに入る。解説文とともに小さなサムネイル写真 (320 × 240 ピクセル) を表示し、サムネイルをクリックすると、Lightbox で大きな画像 (最大 1,024 × 768 ピクセル ) を表示する。説明文末尾の 地図で見る アイコンをクリックすると、別ウインドウで撮影地点の地図を表示することができる。地図は Yahoo! 地図のサービスを利用していて、航空写真に切り替えることもできるので、地上で撮影した写真と比べてみるのも面白いと思う。一部に動画も用意してあるが、これを再生するには最新のブラウザが必要だ。なお、リンク先の地図データは、第三者により日々更新されるものなので、現状と一致しない可能性がある。
 最後に、探訪中は諸般の事情で猫の手を借りたことを付記しておく。


参考文献・出典

水瓶軽便物語 (けいてつ協會)
村山・山口貯水池建設工事写真集 (武蔵村山市教育委員会)
資料館だより (武蔵村山市立歴史民俗資料館)
電子国土 (国土地理院)


※下記のリンクは探訪日順に並んでいます。
順路通りにご覧になる場合はこちらからどうぞ。

─ 探訪区間 (2) ─
[石川島播磨東側~ 6 号隧道北口先]
第 1 回探訪 (2008 年 11 月 23 日)

1. 石川島播磨東側~残堀川手前
2. 残堀川~都道 55 号線
3. 1 号隧道~ 5 号隧道西側
4. 5 号隧道西側~ 6 号隧道北口先
5. 玉湖神社付近~帰着


─ 探訪区間 (3) ─
[6 号隧道北口先~山口貯水池堤体北端・上山口駅跡]
第 2 回探訪 (2008 年 12 月 16 日)

6. 玉湖神社付近~山口貯水池堤体北端
7. Restay Moon 付近~上山口駅跡


─ 探訪区間 (1) ─
[多摩川河川敷~横田基地東側]
第 3 回探訪 (2009 年 3 月 17・21 日)

8. 青梅リバーサイドパーク入口~羽村堰
9. 羽村堰~青梅線西側
10. 青梅線東側~福生加美平住宅
11. 福生加美平住宅~米軍ハウス


─ 探訪区間 (4) ─
[玉湖神社付近~村山下貯水池堤体]
第 4 回探訪 (2009 年 4 月 29 日)

12. 玉湖神社付近~村山下貯水池


戻る ホーム